普通とはなにか
先日、文化放送「大竹まことゴールデンラジオ」さまの取材を受けた。この番組には「大竹発見伝 ザ・ゴールデンヒストリー」という個人の人生に焦点をあてたコーナーがあり、そこでシュウのことを放送したい、という依頼であった。
放送日などはまだ正確には決まっておりません。
決まり次第このブログにてお知らせしたいと思います。
弊ブログを定期的に訪れてくださる皆さまに、聞いていただけますように。
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取材中にいただいた質問については概ね、理論立てて話すことができたのではないかと自己評価しているが、1点だけ頭を抱えてしまった質問があった。その内容は、
「kikuoさんにとって、普通の生活、って何ですか」
というもの。
おそらく質問の背景には「障害者と健常者の接点を探る」とブログタイトルに掲げ、重症新生児仮死/医療的ケア児の日常生活を発信していることが関係している。社会的に見ると非日常な生活を送っているkikuo家なのだが、ブログから見えてくのは、誕生日パーティをしたり、夢の国へ行ったり、姉たちが弟を可愛がったりイタズラしたり、その辺のどこにでもいるような核家族が送る生活だから、違和感を感じたのだろう。
今思い返すと何て答えたのかすらうる覚えで、え、うぇうぇ、お、あわ、あわと、超どもっていたはず。支離滅裂な言葉で、明後日の方向にボールを投げていたと思う。放送作家さんには大変な苦痛を強いてしまった。申し訳ない。
取材から数日経ち、頭が冷静になってきたので、改めて「普通」について、考えを巡らせている。
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「普通」という単語についてwikiによると
普通(ふつう)とは、広く通用する状態のこと。普通の『普』は、「あまねく」「広く」を意味する字である。
対義語として、「特別」「特殊」「特異」「奇異」。
とある。
広く通用する状態なので過半数を超えるだけでは不十分だろう。感覚的に8割くらいの方に浸透していなければ状態であるように思う。例えば、ある製品が社会の中で「普通に」使われていると表現されるには、イノベーター理論で言うところの、遅滞者(もっとも保守的な層で最後までその製品に手を出さない人々。約16%がこれに当たる)以外の層へ浸透する必要がある。
つまり、
社会−遅滞者=(革新者+初期採用者+前期追随者+後期追随者)=普通(全体の84%)
これが「普通」の数値的な定義と言えるかもしれない。
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日本国民のうち、約6%の方がなんらかの障害抱えている*1と言われている。この数は結構多いなーという印象を受けるのだが、先述した84%が普通を超えるラインなのであれば、障害者が社会的に普通になるとはありえない。残念だけど。全人口の84%が障害者手帳を取得するなんて考えなれない。
他方、障害者が社会の中で数的な優位を獲得するのは無理だとしても、自分自身の行動範囲の中に「普通」にいる状態は作れるかもしれない、という希望がある。ここで言う「普通」とは、コロニーなどを作り限られたコミュニティ内で数的な優位を獲得する、という意味ではなくて、「普通」の対義語である「特別」を否定した意味である。つまり、「自分自身の行動範囲の中に、障害者がいることが特別ではなくなる」という意味だ。
放送作家さんの質問には「kikuoにとっての」という縛りが与えられているた。つまり、kikuoの超個人的な主観が許される世界。そして上記のように「普通=特別な状態ではない」と捉えるならば、kikuoにとっての普通の生活とは、シュウと過ごす時間、今の生活そのものだ。オムツを交換すると同列に、たんの吸引がある。本を読んでいる最中、物語と自身の人生を重ね反芻するために目を閉じるその直前、チラと心拍数のモニターに目をやる。吸引をしている時も、モニターに目をやる時も、特別な感情など起きるはずもない。それら行為はkikuoの生活動作に組み込まれている。朝、昼、晩にごはんを食べるのと同じ感覚だ。これが、kikuoにとっての普通の生活である。
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kikuo家の隣には、男の子の3兄弟(構成は長男、一卵性双生児の次男たち)を育てる一家(以下、A氏)が住んでいる。kikuo家と同時期に引っ越してきて、子どもの年齢も近い。それこそ両家の子どもたちは0歳児からの付き合いなので、知らぬ間にkikuo家の庭でA氏の子どもたちが遊んでいたり、逆に我が娘たちが、A氏宅のリビングでチップスを食べながらポケモンDVD鑑賞をしている時もある。その時々で両家が喫茶「南風」となり、南ちゃん、達也、和也のような関係の子どもたちに目を細めることも多い。
A氏の子どもたちと関わる中で、kikuoは一つだけ自分自身にルールを設けている。そのルールとは「シュウのありのままの姿を提出すること」
例えば、なぜ鼻からチューブが入っているの?と質問されれば、シュウの出産時に資料として買った人体図鑑などを使いながら説明するし、心拍数モニターの見方も教えたりする。今まで見たことのないタイプの赤ちゃんがおり、自宅にはない機械がたくさんあるわけだから、説明してあげると子どもたち興味津々にkikuoの話を聞いてくれるのだ。
先日こんなことがあった。
両家で一緒に夜ご飯を食べていた時のこと。kikuoがシュウのお薬の注入(シリンジを使い、鼻から出ているチューブからお薬を流し入れる)をしていると、A氏子どもたちに観察されていることに気が付いた。その目つきから「自分もやってみたい」と「手を出したらママに怒られそう」(自宅でシュウのことを話してくれているのだろう)の2つの感情が混ざっているのが読み取れる。
「一緒にやってみる?」
kikuoが声をかけると目を輝かせて近づいてきた。自宅では超悪ガキらしいのでご両親は心配そうに見ていたけど、4月から小学生になる子どもドクターの手技はとても丁寧で、ブラックジャック先生の手つきを見ているようだった。施術をサポートするkikuoはさしずめ、ピノコ。お薬の注入を無事に終えた子どもドクターはとても満足げに、にっこり笑い、その姿を見守っていたご両親もなんだか嬉しそうだった。
kikuo家に遊びに来るたび、シュウとの関わりがあるので、今ではkikuo家のお姉ちゃんたちと同じように抱っこしたりヨシヨシしたり、モニターのアラーム鳴ってるよー!と教えてくれたりする。つまりこの状態は「彼らの行動範囲の中に障害者がいることが、特別ではなくなった」と言えるのではないだろうか。
隠すことなく、でも誇張することなく、ありのままを提出すれば、数的な優位を獲得することはできなくても、特別ではなくなる状態を作ることができるかもしれないー。この仮説はkikuoにとって今、心の支えになっていたりする。
「kikuoにとっての普通の生活」が「社会にとっての特別ではない生活」になってくれたら嬉しいなあと思う。
以上、「普通」についてのお話でした。
ラジオの放送日は日程が決まり次第、またお知らせしたいと思います。
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最近のシュウ
なぜか今更、新生児用セレモニーフードが送られてきた。