感情の言語化、その差
主治医が身体障害者手帳の申請に必要な診断書を書いてくれた。
生後六ヶ月で書いてくれた訳だから、そこそこ早い方じゃないだろうか。
これで必要書類は揃った。
週明けにでも市役所へ申請して来よっと!
ちなみに手帳取得は3歳からと言われますが、
そんなことはどの法律にも書いてありません。
主治医が診断書を書いてくれるか、否か。
その一点ににかかっています。
しかしそこが少し厄介で、例えばシュウの場合、
月齢6ヶ月の赤ちゃんは健常児でもまだゴロゴロしている子も多く、
それが脳性麻痺からくるものなのか、
ただの発達のバラつきの範囲内なのか、判断しかねることも多く
同じような症状でも先生によっては診断書を書いてくれないということもあるようです。
そう考えると、療育手帳の取得が3歳時検診で促されるのは理解できますね。
幼児はみんな多動で、拘りも強く、ある意味神経質ですから
それらが先天的な障害からくるものなのか、正常の発達段階の過程なのか、
社会性などが身につき始める3歳を過ぎないと分からないのです。
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診断書は公文章ですから、客観的なものでなければなりません。
今まで先生は僕たち家族を励ましてくれていたのか、
とても希望に満ち満ちた話をしたくださいました。
そんな話を聞くたびに「嘘つけー!」や「またまた〜」と思う反面
やっぱり嬉しかったりして、
お世辞とはわかっていてもキャバ嬢の発言でテンションの上がってしまうサラリーマンのような気持ちになっていたものでした。
シュウの診断書にはこう書いてあります。
顕著な精神運動発達遅滞を認め、生後六ヶ月を過ぎても頸定なし。寝返り不能で寝たきり。嚥下障害があり哺乳できず、気道分泌物を頻回に吸引する必要がある。しばしば努力呼吸が出現する。周囲への関心は認めない。
散々な言われようのシュウ。ドンマイ!
手帳を取得したからといって感慨に耽ることもないと思っていたのですが、
客観的な評価、言い換えると、健常児との差を言葉で明確に書かれることって、
ちょっとショックですねえ。
でもなぜなでしょうか。
言葉よりも実物の方が情報量は多いのだから、
できないことは目で見て肌で感じています。
だから相対的に情報量の少ない言葉によりショックを受けるって
不思議に感じてしまいます。
感情や観察される様子を言語化すると必ず差が生まれるから
「できないなあと感じていること」と、「それに対応するであろう言葉」との差に
違和感を感じているのかな。
それとも実物のシュウと触れ合う時に僕の中で生まれている感情に
言語化できていないものも多く、
知らず知らずのうちに良いところを感じているからなのかもしれない。
いずれにせよ人間って言葉に支配されてますねー。
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障害者手帳という位ですから、できなことを羅列していくのはしょうがないのですが
少しくらい良いこと書いてくれないかなあと思うのです。
例えば総合所見欄に
「寝顔が可愛い」
と一言コメントしてくれるだけで結構幸せになるだけどなあ。
PS
上の写真を手帳用に提出しようとしたら却下されました。
クリスマスVer.で良いと思うんだけど!