矢面に立つ
「できれば楽をしたいし、責任も負いたくない、というのが人間の本能。でもどうしても前に出るときがある。押し出されるように、え?俺が?みたいな感じで。その時に、矢面に立つ覚悟があるかどうかでその先の行動が全く違ってくる」
というような趣旨のことを、ほぼ日だかNewsPicksだか忘れてしまったが、矢沢永吉氏がインタビューで答えていた。
ソースとかその他の内容とか、全体的にとてもうる覚えなのだけど、「矢面に立つ」という言葉が妙に頭に残っている。
自分にとって、矢面に立つ覚悟とは何だろうか。
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ある方から、医療的ケアがある子や難病を抱える子どもへ向けたイベントをやりたいから手伝ってほしいという依頼を受けた。
(月イチ位で会議へ参加し、責任者に対して俺の意見シャープでしょ的な顔でちょこちょこっと意見を言って、何となくイベントに関わろうかなあ、といった意味合いで)いいですよ~と快諾したのが2か月前。
だけど友人のお子さんの訃報を受けて、本当に自分はそれでよいのかという疑問が産まれた。
相対的に見て、自分はちょっと特殊な立場にいる。
重症新生児仮死で子どもが生まれ、医療的ケアに支えられた育児を行っているという点だけでも珍しいのに、元来ソーシャルワーカーであるため、仕事としてそのような子どもや家族と関わっていたりする。社会福祉諸制度や医療制度の中で仕事をしているようなものだから、シュウの出産にかかる混乱は比較的小さく、行わなければならないことや考えなければならないことを、ある意味仕事上のタスクと同じような感覚でこなしていた面もあった。それはそれでまた違った種類の苦しみはあったが、当事者でありながら俯瞰するような立場は、主観と客観、現実と法制度、生活とそれを取り巻く社会などの差を見つけやすくもあった。
だからこそ、疑問が産まれたんだと思う。
その差を埋めることが、ソーシャルワークの本質だからだ。
残された家族、と言っては大げさだが、まだ見ぬ友人や日本のどこかにいる同じような境遇にある方に対して、そしてもちろん社会に対しても、障害と健常、マイノリティとマジョリティ等、「あっち側」と「こっち側」という線引きによらない重なり合う想いを紡ぐことが自分の役割なのではないかー。
「お前にしかできないことがあるんじゃないの??」
会ったこともないないが、娘のように感じていたその子に言われた気がしたのだ。
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「矢面に立つ」
読んで字のごとく、敵の矢が飛んでくる正面に立つことだ。それが転じて今では、責任を負い非難を受ける立場という意味で使われている。
自分の置かれている立場で、今出来る、自分にしかできないことを考えた時、矢面に立つことがこのイベントにおける僕の役割なのだろう。
批判の声に耳を傾けよう。団体の行為に責任を取ろう。当事者と支援団体と行政の間に入って、重なり合うものを見つけ出そう。
僕がそれを担えば、チームはのびのびと動き出すはずだ。
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前振りがとっても長くなってしまいました。
今年の10月に医療的ケアがある子、難病の子などを対象にしたイベントを開催します。
市役所、保健所、NPOが主催、特別支援学校(予定)を会場に、色々と企画を考えています。きちんとパブリッシングも行い、近隣の当事者、支援者だけではなく、日本のどこかいる同志?戦友?の皆さんにも、想いやその手法が伝えられたらいいなあと思っています。
そしてもちろん、僕が実質的な責任者です。
背中を押してくれた娘っ子、ありがとう!
詳細が決まりましたら改めて告知いたします。たまに進捗も書きますね。
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PS、本日6月10日、シュウが一歳を迎えましたーー!