『理解する』とは情報をつなぐこと。障害者理解を考える
- 物事の道理を悟り、知ること。また意味をのみこむこと。
- (自分以外の人の)気持ちや立場をわかること。
なんだか分かるよう分からないような感じがするのは僕だけでしょうか。仮に、上記のように物事を知ったとしても、理解したであろう時に得られる感覚、つまり「腑に落ちる」という感覚は得られないんじゃないかと思うのですが、みなさんいかがでしょうか。
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例えば障害者理解と銘打って行われているイベントでは、弁護士の先生を呼んで日本国憲法の基本的人権の尊重や障害者基本法を持ち出して、道徳的には~法的には~というアプローチや、福祉事業所の販売会のように、私たちも頑張っているんです、ということを前面に打ち出したようなイベントが多いように思います。
これはこれで開催する何かしらの意義があると思うのですが、「障害者理解」をテーマにするとなると、こういったアプローチで本当に理解は促進されるのだろうかと大いに疑問が残ります。
この疑問は、そもそもWikiにあるような「理解する」という定義が曖昧だからこそ発生するものなのではないでしょうか。
では理解するとは、どういうことなのか。
本ブログでは以下のように定義したいと思います。
◆理解するとは情報をつなぐこと
「イシューからはじめよ 知的生産のシンプルな本質」 安宅和人 栄治出版 2010
詳細は本書に譲りますが、要は人間は自分の持っている情報(経験から蓄積されていく、その人が持つバックグラウンドのようなもの)と新しく入ってくる情報が繋がらなければ頭に残らない≒理解することにならないということです。
この指摘を踏まえて障害者理解のイベントを考えると、僕が感じていた疑問の原因がわかります。
つまり障害者理解を推進するにあたりターゲットにしなければならない人とは、生活していく中で障害者と関わることのない人でなければならないのに、そういった人たちにあまり馴染のない法律や人権、道徳の話を持ち出して、既存の情報と繋がるはずがない=理解するはずがない。
料理本を見ながら一人で作るよりも、母と一緒に肉じゃがを作る方が理解度が格段に違うのと図式としては一緒ではないでしょうか。
料理本だとせいぜい文字、写真だけの情報ですが、母と一緒に作る場合は、手取り足取り、更には料理と昔話を関連付けさせた話題やうんちくなども期待できます。つまり母と一緒に作った方が、「自分が持っている情報」と「肉じゃがの作り方」との接点が飛躍的に多くなるのです。だからこそ理解した、腑に落ちた状態になるのだと思うのです。
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僕は障害者理解を進めるにあたりこの「接点」をどう作っていくかがキーワードになると思っています。
故にブログのタイトルも「障害者と健常者の接点を探る」にしました。
皆様のご意見いただければ幸いです。