障害理解の立場から東京パラリンピックに期待すること。

「仕事してお金稼いで、たまに綺麗なお姉さんとお話しして(笑)。障害者になって気づきましたけど、幸せの形って健常者も障害者も変わらないんだなあって」

 

北京パラリンピック柔道の部出場者で現在、障害者雇用コンサルタントとして活躍中の初瀬勇輔さんがセミナーの基調講演にてお話されていました。

認識と理解で雇用は変わる!障害者雇用の普及・啓発セミナーを開催(平成29年2月1日発表) | 柏市役所

ある日突然健常者から障害者となった初瀬さんの言葉は、障害者の置かれている現状や、理解の本質をつく内容だと感じたため、シェアしたいと思います。それを踏まえて東京パラリンピックに期待することを、障害者と健常者の橋渡し役の立場から書きます。パラの話題なんて本当に超今更だけど、書きたい時が書きどきですからね。読んでいただけると嬉しいです。

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初瀬さんてどんな人?

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初瀬勇輔(はつせゆうすけ)1980年生まれ

大学在学中に緑内障を患い、視覚障害を持つ。

2005年に全日本視覚障害者柔道大会90kg級で優勝、以後7連覇を達成する。

2008年の北京パラリンピックに出場。

現在は株式会社ユニバーサルスタイル代表取締役の他、選手を続けながらパラリンピックの普及に取り組んでいる。

オリンピアンとパラリンピアンの違いから見る、健常者と障害者の立場の違い

オリンピックという華々しい舞台、選手たちは出場を目指し日々鍛錬を積み重ねます。鍛錬を積み重ねるにはどうしてもお金が必要となりますので、プロリーグが存在すること、ない場合は実業団に所属、もしくはスポンサーがつくことが必須でしょう。競技による格差は指摘されていますが、少なくともオリンピアンにはそれらが存在している点でとても恵まれています。

一方、パラリンピアンはどうでしょうか。プロリーグは存在しないにしても、少なくとも所属企業は応援してくれているかと思いきや、実情は全く違うようです。初瀬さんは言います。

僕が出場した北京パラリンピックでは、選手が会社の有給を使って出場できただけでもいいほうで、欠勤扱いはザラ、中には会社を退職をして出場している人もいました。

日本を代表するアスリートなのに、この待遇には驚かされます。障害者の置かれている現状が如実に現れています。オリンピック出場を雇用主が許可しないため、会社を退職しましたなんて話聞いたことがありませんよね。社会への参加の平等さえ担保されていないのだから生きづらかったはずです。

ロンドン、リオでの選手の活躍や、2020年東京開催の決定もあって、現在は企業も選手のバックアップに回ることが多くなったそうですが、ほんの数年前まで、パラリンピックって野球でいうと草野球と同レベルの扱いだったんですね。競技を続けてこられた選手の皆さんには頭が下がります。

 

北京パラリンピックの開催まで障害者スポーツにおいては、全ての競技を通じても日本にプロ選手は存在していませんでした。しかし、北京パラリンピックの終了後一人のプロ選手が誕生します。それが車いすテニスプレーヤー国枝慎吾さんです。

北京で国枝さんが金メダルを取って、その後プロに転向した。障害者の未来にも希望があるんだという思いで、国枝さんを見ていたのを覚えています。

当時の国枝さんは世界ランキング1位、車いすテニスのグランドスラムも達成していました。その実力を持ってしてもなおアマチュアとしてプレーしていたわけですから、パラリンピックが社会へ与える影響というのは計り知れないですね。

障害者と健常者を隔てるもの

初瀬さんの発言一つ一つはご自身の体験を元にしているため、とても説得力があります。本エントリ冒頭に書いた言葉も然りですが、もう一つ印象に残った言葉があります。

障害者と健常者って地続きなんですよ。あっち側、こっち側と別物のように扱われますけど。自分がいつでも障害者になる可能性があるし、障害者も健常者もあまり変わらなんです。 

これはとても共感します。脳性麻痺のあるシュウを育ててみてわかったけど、シュウに対する思いとお姉ちゃん達に対する思いに変わりはないんですよね。元気に育ってくれよー!という気持ちは共通していて、違うのは医療的ケアがあるかないか。ただそれだけ。

 

僕たちは「障害者」「健常者」とグループで語りがちです。もちろんそれは悪いことだけではないけど、グルーピングだけで捉えるとそこにいる個人が見えなってしまうという点には注意が必要だと思う。

人間誰しもが得意不得意があって当然で、それを様々な工夫を持ってカバーし生活してますよね。僕はとても忘れっぽいので、メモを取りアラームをセットするなど、思い出す装置をどこかしこに設置しています。このような工夫は大なり小なり誰もが行なっているもので、その工夫に障害者も健常者もありません。初瀬さんも目が見えないことによって起こる困難を工夫によって乗り切っているはずです。そして工夫を持って困難を乗り切れることができれば、その人を障害者と分類する意義はあるのでしょうか。

例えば乙武さん。手足がないということで起こる困難を、様々な工夫によって乗り切っていました。一般の会社員よりもお金を稼ぎ、そのお金で自費でアシスタントを雇い、生活のサポートをしてもらっていました。全員がこんなことできるはずはないですが、これも一種の工夫でしょう。昨年は不倫騒動で騒がれていたけど、批判の中には障害者云々という話はほとんど聞かれませんでした。これって世間が乙武さんを障害者と捉えていなかった証拠です。少なくとも僕はそうでした。だってニュースを見たときの感想はまず「5股ってすげーな」だったもの。「手足ないのにすげーな」じゃなくて。そして乙武さん自身も自分のことを障害者と意識して生活されていなかったんじゃないかな。

 

健常者も障害者も、生活する上で工夫が必要です。その点では何も変わりません。ただし、工夫しなければならない量がある閾値を超えて、本人が持つ資源だけでは対処できなくなると、障害という分類に入ってしまうのでしょう。そういう意味を込めて初瀬さんは「地続き」と表現したのではないかと想像します。こうして考えると、障害者と健常者を隔てるものは少なくとも身体的な機能ではないことがわかりますよね。

東京パラリンピックに期待すること

誰もがいつでも障害者になる可能性がある。生まれてくる子供に障害がある可能性もある。だから彼らを理解しよう。という標語は結構みるけど、健常者側にとってかなり乱暴な理論です。同じ時間を共にすることが多い夫婦ですら理解に苦しむのに、社会参加の平等さえ担保されず、そもそも出会うことの少ない人たちに想いを寄せろって乱暴すぎませんかね。障害者側にとってもかなり卑下された表現だとさえ思います。

そうした中で、僕が東京パラリンピックに期待するものは1点、障害者を感じる機会を生み出すことのみです。

一緒に生活でもしていない限り、彼らの能力を感じる機会はまずありません。しかしパラリンピックという社会的に注目度の高いイベントでは、普段関係のない人が、彼らを感じる第一歩を提供するでしょう。初瀬さんも同じように語っていました。

 

アスリートにとってはゴールかもしれないけど、社会にとってはパラリンピックがスタートなんです。

 

パラリピアンのパフォーマンスは人間の持つ可能性を最大限魅せてくれます。

閉会後に日本人の意識は、どのように変化していくのでしょうか。ガラッとは変わらないけど、流れは確実に変わると思うな。

沢山の人が観戦して興奮する東京パラリンピックになることを期待しています。

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プロフィール

kikuo_tamura

社会福祉士 / ソーシャルワーカー

社会福祉法人 松の実会 評議員 / NPO法人 こども子育て・発達支援研究会 監事

H28年6月、重症新生児仮死にて長男が生まれたことから、医療的ケア児関連に特に興味があります。

趣味は登山、トレイルラン、子どもを追い回すこと。1985年千葉県生まれ。
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