障害者と健常者の接点を探る

主夫による脳性麻痺の子供の話。ご意見ご感想頂けると大変嬉しいです。m.jigglerアットマークgmail.com

ヒューマンライブラリー2017の感想とか

1126日、明治ヒューマンライブラリー(HL)に本として参加してきた。

話す内容は重症新生児仮死/医療的ケア児/重度の脳性麻痺のこどもを育てる父のはなし。

つまりこのブログで書いているような内容のこと!

 

yokotaseminar2017.wixsite.com

 

お陰さまで与えられた時間30×7コマ(7人の読者)は全て埋まり、どの方も熱心に話を聞いてくださった。読者の立場/属性によって聞きたいポイントがそれぞれ違うようで、それがなかなか興味深かった。例えば大学生は恐らくコウノトリ先生に影響を受けて話を聞きに来たのかなと思ったり、子育て経験された方はシュウとのコミュニケーション方法についてだったり、医療者は在宅の生活の様子であったりと、様々だった。

助産師として働いている方が話を聞きに来てくださったのだが、シュウがNICU時代にお世話になった医師と知り合いで、来月お会いする機会があるらしい。よろしくお伝えくださいってHL内で伝言ゲーム。世間って狭いなー。

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受付の様子。300人以上の方が集まったらしい。

 

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「本」は全部で32冊。時間があれば読者としても参加したかった。

 

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「本」には個室が与えられ、読者と対話する。その部屋から眼下を撮ってみた。沢山の方が受付に並んでいるのが見える。

ちなみに待ち時間が結構あったので、ブラインドに指を掛けホシ(というか読者)の動向を窺うゆうたろうのモノマネをしながら時間を潰した。

 

 

対話というコミュニケーションは双方向である。一方が話すともう一方がその内容についてフィードバックをし、その繰り返しだ。しかしHLは対話という手法は取りつつも、「本」と「読者」に分かれるため、「本」から「読者」へ一方通行のコミュニケーションになったりする。一方通行のコミュニケーションは時に聞く側にとって辛いことも多いが、HLの場合、少なくとも「読者」は「本」の持つテーマに興味が惹かれ「本」を選んでいるためそうはならない。このような体験、つまり一方的に話をしてもうんうんと熱心に耳を傾けてもらえるという体験から気づくことが多くあった。

 

 

kikuoの仕事は相談支援を生業としたソーシャルワーカーである。所属機関にしても取得している社会福祉士という資格にしても、何か法的強制力を持って行える仕事ではないので、自分の仕事はコミュニケーションが全てだと思っている。したがって相談者から表出された言葉や行動は、何の感情を代弁しているのか、という点に注目し話を聞く。表出されたものは感情の一部分に過ぎず、その下には大河のように流れる膨大な量の無意識の感情が存在しており、そこに本当に求めていること(相談者すら気づいていないことも多い)が隠れているからだ。とにかく話を聞く。9割は聞き役に徹しそして行動の変化を観察する。相談員という立場だがアドバイスすることはほとんどせず(求められた場合はもちろん除く)、とにかく相談者が話しやすい環境、対応を心がける。そのようなことを繰り返していると「もう死にたいんです。」と伏し目がちに話していた相談者が面談を終えることには笑顔になって帰っていくことも少なくない。

「話を聞く」という効果について日々目の当たりにはしているが、聞き役の自分が体験することはないので、相談者がどのような心情なのか理解できなかった。しかし今回HLで自分が話す側に回ってよく分かった。自分の持つ「人生という物語」に興味を持ち、熱心に耳を傾けてもらえるという行為それだけで、話す側にとって自身の人生が肯定された気持ちになるのだ。

さらに重要なのは、「話した内容が相手にどう影響を与えたのか」という点はあまり関係ないということにある。

kikuoの話が読者にどのような影響を与えたのかは直接確認していないため正直よくわからない。ポジティブな変化が生まれていたら嬉しいが、ネガティブな印象を与えた可能性もある。しかし読者の気持ちの変化を把握できていないということはつまり、kikuoが感じたHL後の清々しい気持ちとそれら変化に因果関係はないことの証明でもある。

 

先日開催したこどもフェスタinとうかつで「かぞくの座談会」と称した企画を行った。kikuoがコーディネーターとなり、父、母、きょうだいに話を伺う内容だが、登壇後その当事者たちにポジティブな心境の変化が生まれたと感想をいただいた。しかしkikuoが何か特別なことをしたかといえばそんなことは全くなく、行ったことは話を聞き出したことだけだ。

「熱心に耳を傾ける」ことに特別な場所も、装置も必要ない。誰もが行うことができることなのに、マイノリティにいる人の心境がこれだけポジティブになる。この理解を得られただけでも、HLに参加した意義があったとなあと思う。

 

 

読者の中で一番印象に残っている読者は中国からの留学生で、某大学修士生の女性だった。彼女曰く中国には聾、盲の特別支援教育は存在するが、知的、療育分野の学校は見たことがないという。そしてそのような子どもは街中や、メディアの中でさえも見たことがないらしい。

日本で特別支援学校(当時は養護学校)が義務教育化されたのが1979年。それ以前は自宅や施設で座敷牢のような場所に匿われていた方もいたと聞くが、当時の日本の様子がまだ中国に残っていることなのかもしれない。

シュウのように医療的ケアが必要な子どもが自宅で生活しているということだけで、驚きを隠せない様子だった。中国社会の障害に対する受容度は、車椅子に乗る身体障害者が大学に入学し、その方をサポートする同級生が存在する、というだけでニュースになったりする程度であるため(彼女談)当然かもしれない。

 

シュウの身体的な様子、障害の重さ、ケアの種類、それを踏まえて自宅での過ごしかた、きょうだいとの関わりなど、写真見せながら話を進めていくにつれて、彼女の目は真っ赤になり、そのうち泣き出した。その理由は何となく察しがついた。ストレートに聞いてみる。

「こういう子どもが生きてる意味ってあるのかなって、疑問に思っているでしょう?」。

彼女は言った。

「。。。そう思ってしまいました」。

当事者を前にして取り繕うことはせず本心を正直に答えることができるなんて!

素直で素敵な女性なんだと感心した。

 

自主的に動くことがままならない身体、医療デバイスに囲まれた生活、予後のことなど、聞こえて来る話はネガティブなものばかり。中国で生まれ育った彼女には障害に対する蓄積がないため、ある側面からは何もできない存在だと捉えることもできるシュウのような子どもに対し、「生きる意味ってあるのかな」と考えるのは当然だろう。しかし映し出される写真は、お姉ちゃんたちと楽しそうに遊ぶ写真や、家族旅行の写真など、普通の家族と何ら変わらない風景が広がっている。

そのギャップに頭が混乱し、つまり今までの価値観が揺らいで、でも我々家族に想いを寄せてくれたから涙が流れてきたのかなあ、なんてことを考える。

今は別に分からなくたっていいと思う。だけどいつかkikuoから聞いた話を思い出して、あいつはこのことを言ってたんだな!なんて日が来るはずだ。そしたらその時に、街で見かけた困っている誰かに、その気持ち分けてあげてくれたら嬉しい。そんなことを彼女に話した。

 

対話後、彼女からメッセージカードをいただいた。

keep healthy(日本語忘れてしまいました!)and 頑張って!」

だって。

健康に頑張る。

なかなか含蓄のある言葉である。

 

 

明治大学の皆様,この度は声をかけてくださり本当にありがとうございました。

見ず知らずの方に自分の体験を話すというのは新鮮な体験で、

上述のように得るものが多く、とても有意義な時間でした。

 

外部の方をお呼びしイベントを企画することについて、

本当に気苦労が絶えなかったと思います。

でも開催までのプロセスは今後の人生において、直近では就職活動において

大いに糧となるものです。

そのような場に本として立ち会えたこと、本当に嬉しく思います。

またいつかどこかで、お会いできたらいいですね。

その時はぜひ、皆様のお話を聞かせてください。

 

kikuo_tamura

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プロフィール

kikuo_tamura

社会福祉士/非営利組織専門の広報戦略コンサルティング会社 JIGコンサルティング代表 https://www.jig-consulting.com/

2016年6月、重症新生児仮死にて長男が生まれたことから、医療的ケア児関連に特に興味があります。

趣味は登山、トレイルラン、キャンプ、子どもを追い回すこと。千葉県生まれ。
ご意見、ご質問など、メールをいただけると、とても嬉しいです。
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