僕が知的障害者のファンになった時の話
皆さんが感動するときはどんな時でしょうか。
子どもが生まれた時?プロポーズされた時?タイムリーな話題なら、日本選手がメダルを取得した時なんか、感動が産まれますよね。なぜこのような場面に遭遇すると感動するのでしょうか。
人って、生きてく上で、少し先のことを予想し、その予想を基に行動しているように思います。起きた事実ではなく、起こるであろう事実を基に、です。
例えば、信号が赤から青に変化した、その事実を認知し動き出すのではなく、まず先に赤から青に変化するであろうという予想があり、その予想と事実が合致したから動き出す、そんなイメージです。
コミュニケーションもそう。ある程度相手の反応を予想しながら会話していると思いませんか。完璧に予想していることはないと思いますが、例えば、「夜ごはん何にする?」という質問も、頭の中に自分の作れる料理が何通りかあって、更に外食という選択肢もあって、その範囲内の中で答えを求めてるというか。
で、その予想の範囲外の話になると、プラス方向の予想外だとへ~!に、マイナス方向の予想外だと嘘だろ、、、といった心象になる、
料理の話もそうで、予想していた選択肢以外の料理が返ってくると、
プラスの場合は、よっしゃーー!!(例:今日は奢るよ!!)、
マイナスの場合は、そんなの作れねーし!(例:そら豆の冷製スープ作って)と言って結局カレーにするみたいな。
「夜ごはん」という無限の選択肢を与えておきながらこういう反応になるのって、ある程度答えを予想しているからこその結果だと思うのです。
少し話が逸れましたが、この予想と現実のギャップに感動の元の一つが隠れているように思うのです。
子どもが産まれた時に得られる感情について、予想はできます。初産であればパパママ学級で抱っこの仕方や沐浴の練習などして出産についてのより高次にイメージづけされる方も多いでしょう。
でも、十月十日命を感じながら過ごし陣痛を堪えて出産したあの時の感覚は、その予想を遥かに超えるものです。まさに、経験した人にしか得られない感覚です。だからこそ感動すると思うのです。
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僕は福祉の学校をでたわけでもなく、ただ若いだけで引く手数多な業界はどこかなと考え福祉に行きついたので、当時は障害者に対する知識はほぼなしでした。街でたまに見かけるよね、程度の知識。直接関わったことなどありませんでした。
そんな状態で障害者施設に就いたもんだから、毎日が感動の連続だったのです。コミュニケーションの予想が出来なかったんですね。Aと質問したらBで返ってくるだろうという今までの人生観では全く歯がたたず、僕の予想を遥かに超えてくる。例えば野球やろうぜと誘ってソフトボールくらいの勘違いなら予想できますが、カバディをやりはじめちゃったよと。そんなレベルの話が日常でした。(もちろん実際にカバディをやったわけではない)
彼らと関わると今でもそう。これら予想と起きる現実が全く合致しないという感動体験が、僕をいつまでも惹きつけいるのです。
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とても印象的なエピソードがあって、当時勤めていた施設ではうどんを作っていて、近くのスーパーに納品していたんですね。
その配達時、クーラーボックスを積んでおいてとお願いしたらこれでした。
車に乗る際はシートベルトは欠かせませんもんね!
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頼まれた方は本当に一生懸命だったと思うんです。お客様に配達するものだから倒してはいけない、安全に運ばなければいけない。車にのせるんだから、安全を確保する必要だある。何が必要なのか。そうか、シートベルトしかないだろう、と。この素直さと想像を超えるアウトプットがとても魅力的に思えて、僕は知的障害者のファンになったのでした。
施設を辞めた今でもこの方とは個人的にやり取りをしていて、正月になれば年賀状を送ってくれるし、すべらない話のスペシャルが放送されると必ずメールをくれます(僕が松ちゃん好きなのを知っているので)。
彼らは自らアピールすることが難しいので、そのイメージはメディア情報に流されがちです。だけど実態はそうじゃない。こういった彼らの魅力もきちんと伝わっていけば良いなと、そんなことを思いながら日々ブログを書いています。