重症新生児仮死で産まれた息子の生きる意味って何だろう
重症新生児仮死で生まれ、今後も重度の脳性麻痺が残る長男。こういった条件を背負っている我が子が生きる意味は何なのだろうか、生まれてからずっと考えてきました。そして一つの結論に辿り着きます。今日はそのことについて書いてみたいと思います。
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「生きる意味って何だろう」
皆さんも一度は考えたことのあるテーマではないでしょうか。遊ぶこと、食べること、勉強すること、、、皆さんの中にそれぞれの違う答えがあると思いますが、その答えには共通する前提条件があります。
それは、「ある程度の健康な体と思考できる脳がある」ということ。
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息子には「ある程度の健康な体と思考できる脳」がありません。今後も獲得することはないでしょう。「生きること」と、「存在すること」は違います。だから悩んでしまいます。
経管栄養であるため美味しいものを食べるということもできません。きょうだいと喧嘩することもありません。友達とイタズラした時のどきどき感とか、部活に熱中して涙を流すこととか、人を好きになる気持ちとか、付き合って気づく人の温かみとか、別れて傷ついて得ることのできる成長とか、、、そういった人生を豊かにするようなエピソードを経験することが、不可能です。
しかしそんな息子にだって生きる意味はあるはずです。見出せるはずです。それができなければ、息子の命は否定されたと同義です。親としてこんなに悲しいことはありません。
出生時は自発呼吸もなかったのに、今や呼吸は自立しています。循環不全、血小板減少により輸血を複数回施したのに、そんな話も出なくなりました。繰り返す誤嚥性肺炎も、その度に回復し、在宅へ、なんて話も現実的な目処がつくようになりました。こんなに必死になって生きようとしている我が子。親として今、息子にできることは、彼の生きる意味を見つけるあげることだ。そう思いました。
結局のところ言葉だけの問題じゃないかと、そう思う方もいるでしょう。定義できたからって息子の容態に変化はないじゃないかと。確かにその通りです。でも、だからこそ、言葉だけでも生きる意味を見つけなければなりませんでした。そうでなければ、僕ら夫婦も、息子も、救われません。こういった本当に絶望的な状況の中で、僕たちにまず必要だったのは言葉でした。
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生きる意味を探す中で、条件は2つありました。
1つ目が、きょうだい3人に当てはめることができること。
2つ目が、親の心がけ次第で達成できるもの。
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1、きょうだい3人に当てはめることができること。
僕たち夫婦にとってとても大事な3人の子どもたち。障害があろうがなかろうが、そこに差はありません。だから3人に共通する定義が必要でした。お姉ちゃん2人は元気いっぱいで、外で家で暴れまわっています。年も近く(5歳と3歳)、2人で僕にイタズラを仕掛けては追い回されるの繰り返し、つまり素敵な女の子たちです。一方息子は脳性麻痺、嚥下障害、死のリスクを常に抱えた子、、、条件が違いすぎる子どもたちが共通する生きる意味ってなんだろうか。本当に悩みました。
2、親の心がけ次第で達成できるもの。
脳波はほぼ平坦で、今後も思考することは難しいでしょう。また、脳性麻痺の影響により身体を動かすことが困難です。そういった状況下ですから、親が与えられるものでなければなりません。親として、子どもたちに与えられることができるもの。もちろんお姉ちゃん2人にも共通するものでなければなりませんから、子どもたちの人生に関与し過ぎるというのも親の態度として問題があります。その辺のバランスをとる必要がありました。つまり、本当に悩みました。
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そして辿り着いた答え。
『生きることは出会うこと』
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この言葉に僕たち夫婦は本当に救われています。
息子と生活してく上で指針となる言葉を心の中心に据えることができたことで、今後の生活にも希望が湧いてきました。
今後も息子の些細な、本当に些細な変化一つ一つに一喜一憂し、悩みが尽きることはないと思います。
しかし、迷いが生じることはないと確信しています。
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みなさんはどう考えますか。ご意見いただければ嬉しいです。
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