障害者と健常者の接点を探る

主夫による脳性麻痺の子供の話。ご意見ご感想頂けると大変嬉しいです。m.jigglerアットマークgmail.com

重症新生児仮死児の出産を通して、障害者とどのように接していけばよいのかを考える。

今日で出産から20日が経過しました。

 

まだNICUにはいるものの、命の危機は脱することができ容体は落ち着いるようです。

 

さて、今回は障害を持った人(スティグマを負った人)はどのように接してほしいのかを、自分の経験を踏まえて考えてみたいと思います。

 

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先日誕生した長男は、重症新生児仮死で生まれてきました。

 

このような状態で生まれてきたのですから友人たちに報告すべきか否か、とても悩みました。

 

報告したらきっと何て言葉を返したらいいのか相手は悩むだろうなとか、でもしなきゃしないで心配もするだろうなとか、更に報告しない場は合自分の子の存在を否定するみたいで嫌だなとか。色々とぐるぐると思いが巡りましたが、出産数日後、報告しました。 やはり今までお付き合いしてくださった方々には誕生を報告したいですし、子の存在も知ってもらいたいですから。

 

当然ながらことがことですから、相手には気遣いもしなければなりません。びっくりしない程度にやんわりと、ただ、事実は隠すことはなくという事は心がけました。

 

具体的には、予後のことは書かず、つまり障害が残りそうだというこは書かずに、心拍が下がったので帝王切開となり、今はNICUにいて治療中だという旨です。

 

でも、やはりというべきか、報告された相手は動揺するんですね。心拍低下やNICUというあまり良くないイメージの単語が報告メールに入っているのですから当然です。

 

報告をした人総勢50名はいるでしょうか、長女、次女がお世話になっている保育所の先生やそこで出会ったパパ友ママ友、学生時代からの友人、妻の職場の人(妻は福祉従事者ではない民間企業所属)、僕の職場の人(つまり社会福祉従事者)、仕事で関りのある弁護士さんや、当然親兄弟も含まれます。

 

つまりバックグラウンドが多種多様なんですね。

 

で、どういった反応があったのかというと、不思議なことに概ね下記3パターンに分類されました。

 

①出産という事実がなかったかのように、普通に接する。

 例:保育所の送迎時にすれ違った際、「おはようございます~」等挨拶だけされる。

②出産については聞くが、その状態にまでは踏み込まない

 例:保育所の送迎時にすれ違った際、「出産おめでとう~」だけの声掛け。

③赤ちゃんの容体まで、突っ込んで聞いてくる。

  

で、一番嬉しかった反応のは③だったんです。

 

なぜなんでしょうか。その理由を健常児の出産と比較して考えてみるとわかります。

 

健常児を出産した場合、報告した相手との関係性を考えると*1、必ず、色々聞かれます。

新生児の匂いっていいよねとか、落ち着いたら合わせてねとか、抱っこしたいーとかです。事実、上の子2人の出産時はそうでしたし、子どもを持つ親であれば、理解していただけると思います。

 

つまり、①、②の対応は考えられないんですね。これは、健常児と障害児の出産で明確に反応を変えている証拠であり、気を使っているのだけれども明確に区別されている反応になんともいえないもの哀しさを感じてしまうのです。

 

だからこそ、③の反応が嬉しいのかなと思うわけです。

 

親としては、無事に生きて出会えただけでやっぱり嬉しいんです。だけども今後の子どもの人生や生活などに不安を感じたりして、混乱状態にあります。そん中で、障害の有無に関わらず、「一人の赤ちゃん」が生まれてきたという事実に焦点を当てて、お付き合いしてくれるのは、ある意味で今後も変わりなく付き合っていくよ!という明確なメッセージにもなったりして、とにかくとても嬉しいのです。

 

別に僕は①、②の方を批判している訳ではありません。この2つを選択した方々もきっと色々と悩み、僕たちに気を使ってくれたからこそだと思うんです。正直今までの僕も、例えば18トリソミーの子を出産したなんて報告を受けたら、脊髄損傷により両下肢の麻痺になりましたなんて報告を受けたら、なんて声をかけて良いのか分からなかったと思います。*2

 

今回の事でわかったのは、『障害者だから(スティグマを負ったから)といって、特別視してほしくない、普通に接してほしい』ということです。ここでいう普通とは、障害者、健常者という括りではなく、一人の人格ある個人として、という意味です。

 

例えば視覚障害者が白杖を持ち駅を歩いていたとしましょう。

 

障害者、という括りであれば、相手がどういう状態にあるか関係なく、声を掛け手助けをしようとするでしょう。しかし、例えそれが善意の気持ちからくるものだとしても、ここにあるのは、「視覚障害者=目が見えないから困っている人」という偏見だということを忘れてはいけません。視覚障害者であっても、行きたいところへ行ける人はたくさんいます。それなのに視覚障害者という括りだけで考えてしまうと、行きたいところへ行ける視覚障害者にとっては、はっきり言って自尊心が傷つけられるだけではないのでしょうか。

 

人格ある個人、という括りであれば、本当に困っているかどうか見極めようとするでしょう。点字ブロックを見失っている素振りが見えるとか、人波に流されそうになり戸惑っている、など少し観察すれば違和感があるのはすぐにわかります。そういった時には、声を掛ければいいのではないかと思うのです。

 

障害者スティグマを負った人)と関わるうえで、大切なのは、障害者、健常者という前に大前提として同じ1人の人間なのだ、という意識だと僕は思っています。

 

ちなみに福祉従事者であってもこういった対応を出来る人は少ないのだな、職種は関係ないのだなと、長男の出産の報告を通して実感したのでした。

 

 

 

 

 

 

 

*1:よく連絡を取り合うし、遊んだりもする関係のよい方々と捉えてください)

*2:なぜこのような感情になるのかは改めて考察したいと思います

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プロフィール

kikuo_tamura

社会福祉士/非営利組織専門の広報戦略コンサルティング会社 JIGコンサルティング代表 https://www.jig-consulting.com/

2016年6月、重症新生児仮死にて長男が生まれたことから、医療的ケア児関連に特に興味があります。

趣味は登山、トレイルラン、キャンプ、子どもを追い回すこと。千葉県生まれ。
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