改めて障害児を育てること、ブログを書くことを考えてみる
どんなにくだらない内容でも一年半以上ブログを続けていると、定期的に弊ブログに来てくださる人が増えてくる。アクセスが増えるとGoogleにも上位表示されてくるため、新規読者の方も少しづつ増えて来ている印象もある。
障害/重症新生児仮死/医療的ケア/脳性麻痺などの重くなりがちなテーマを、なるべきゆるく、重くならないように書いている点が評価されているのか、ソーシャルワーカーという仕事柄、医療福祉諸制度の話を挟んでいる点が評価されているのか、はたまたシュウのムチムチっぷりに魅力を感じてくださっているのか、理由はそれぞれあるのだろうが、多くの方に読んでいただけるのはとても嬉しい限りである。
児童デイでチョコをもらったのではなく、作ったらしい。ムチムチポイント。
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最近、ちょいちょいと直接相談メールをくださる方が増えて来た。希望された方には直接お会いする時間を作り、お話を伺うこともある。どの方もとても大変な状況なのに丁寧にメールを作ってくださる。行間からkikuoの状況も勘案し適度な距離感を持って関わろうとする気遣いも感じて、その姿勢から、人間としての力強さみたいなものを感じるざるを得ない。とても不謹慎だけど。
連絡をくださる全ての方に共通しているのは「不安」が挙げられる。
医療的ケア/障害がある中で子どもは成長していくのかという不安、子ども一緒に生活していくためにはどのような医療・福祉サービスがあるのかわからないという不安、自宅で過ごしている具体的な様子がわからないという不安。そして親として人として、我が子とどう向き合っていけば良いのかという不安。
今でこそシュウとの生活をこなせるようになったが、かくいうkikuoも出産直後は不安で不安でたまらなかった。その不安はシュウの状況を自分の脳味噌で消化しきれていないことや、未知でかつ分かりづらい医療・福祉制度、自宅での生活を想像することができない、などに起因するが、それらを整理し、処理するためにブログを書き、隙間時間には検索窓をコンコン叩いて嘘とも本当ともつかないインターネット情報を浴びに浴び、先輩家族のブログを読み漁り、とにかく情報を集めた。同じ境遇にいる家族や支援団体の元へ足を運び、インタビューをした。そしてもちろん話も聞いていただいた。忙しく動くことで現実を少しでも忘れたかったのかもしれない。とにかく毎日、働きバチのようにあっちこっちに飛び回り、脳味噌を疲弊させた。その甲斐あってか、病院という巣で守られていたシュウは、それら情報を栄養素に幼虫から蛹、そして成虫になり、自宅で過ごすことができるようになった。今のところシュウに関する決断のあれこれは見出し続けているし、その決断に後悔は生じていない。
kikuoもそのような道を通って今に至るわけだから、連絡をくださる方に対しては、半ば当時の自分へ語りかけているような気になって、一つ一つ返信してしまう。出産直後のとっても不安だった気持ち、例えば良いとことも悪いとことも気兼ねなく気軽に聞ける人がいたらどんなに助かっただろうとか、ただただ不安な気持ちを聞いて欲しかったとか、子どもに対して否定的な感情を持ってしまう自分に対しても肯定して欲しかったとか、そのようなことを思い出し、連絡をくださった方と自分を重ね、ニチニチメールを打つ。場合によっては自分自身が持つ経験やノウハウだけではなく、仕事で得たネットワークを生かし、情報収拾してから返信することもある。
そんなkikuoの姿勢を見て、「仕事じゃないのによくやるよね」と、ある方に言われたことがあった。金銭的な対価を頂いている訳でもないのに、もしくは直接的な対価ではないにしろ、各種SNSと連動させアクセス数を稼ぐような仕組みを取り入れて広告収入に繋げている訳でもないのに、自分自身の時間を割き、関わろうとする姿勢を理解できないらしい。
なぜこのようなことをしているのか、改めて自分に問うてみると結局のところ、kikuo自身も不安なんだな、という答えに行き着く。
なるべく自然に、普通の子のようにと思い、シュウと色々な場所へ出かけ、多くの人に会うようにしている。福祉、医療の枠からなるべく出て行こうと試みる。鼻からチューブが出ていて、定期的に吸引が必要だから、街中ではじろじろ見られることも多い。バギーマークをつけてても尚、シュウの状態を一からプレゼンしなければならないことに対して悲しくなることもある。しかしそれも、外出の回数を重ねるうち、気にならないようにはなった。
ただし、気にならないようになっただけで、無くなった訳ではないのだ。「普通の子のように」と枕詞をつけている時点で、シュウを特別視しているのと同義だろう。この感情はシュウを育てて行く限り、消えることはないように思う。
社会の中で障害のある子どもを育てて行くという立場に立った時、この感情を共有できる人は本当に少ないんだなと気付かされる。これは本当に寂しいことだ。
人間は他者との情緒的な結びつきを得ることによって生きて行くことができるのは、みなさんが実感している通りだろう。そして情緒的な結びつきを得たいと思う対象の多くは、自身と同じ境遇/環境にいる人、つまり現在の生活の中で共通項が多い人ではないだろうか。
「障害のある子ども」という人口構成比の少ない分野は、必然的に自身と同じ境遇/環境にいる人との出会いの機会を少なくしている。特に医療的ケア/難病児という分野は更にニッチで、かつ移動には医療デバイスがセットになるという物理的な課題も発生しているため、その出会いは極端に限られていることが多い。だからこそ時間、場所のハードルが限りなくゼロに近くなるインターネットの世界に身を投じ、自身と同じような環境にいる他者を探し、コミュニケーションを取ろうとするのではないだろうか。
繰り返し言うぞ。
相談くださる皆さまと同様に、kikuoの不安なのだ。
自分自身も不安だから、コミュニケーションが取りたいのだ。何に不安を感じ、悲しみを感じ、希望を感じ、喜びを感じるのか、とても興味があるのだ。そして自分のそれも知ってもらいたい。不安をどうにか跳ね除けようと、もしくはその不安を楽しみたいと思うから、しょーもないことも多く書く。もちろん有益だと思える情報も共有する。それを読んだ皆さまが、ふふっ、としたり、なるほど!としたり、何かしらポジティブな感情の変化が生まれたらとっても嬉しい。だけど、たまに泣き言を言う。つまり話も聞いてもらう。そしてそのお返しとして、別の誰かの相談にも丁寧に返信をする。このブログを媒介に、そんなコミュニケーションがぐるぐる回っている感じ。これは仕事じゃないからできることだと思う。だって読者はお客さんじゃない。同志だ。その人が困っていて、自分に余裕があるなら、助けたいと思うのは当然でしょう。そしてその過程の中で、kikuoも救われている。金銭的なやりとりはないが、両者はギブアンドテイク。しっかりと等価交換が成り立っているように思う。
だからブログを続け、相談にも対応してるのかもな、なんてことを考えました。
なんやかんや言うても、障害のある子を育てるのって大変ですよね。どうぞお気軽にご連絡くださいませ。一緒に悩みましょう。
おしまい。